とにかく☆ヨ助のデジタルタトゥー

とにかく☆ヨ助のブログです。日常と音楽の話をします。

ツイート下書き通信 2022年2月号

 こんにちは、とにかく☆ヨ助です。このブログも更新頻度を上げてから1か月が経ちました。前回の記事を上げてからほどなくして累計閲覧回数100回を突破しました。記事をアップロードするたびに読んでいただける方がいるということがとても嬉しいです。

 

 さて、ツイート頻度を減らす目的で始めたツイート下書き通信ですが、1月号の投稿時に週一回ほどだったツイート頻度がここ最近は2日に一回ほどとなり、順調にツイ禁失敗への道を歩んでいます。

 とはいえ、私としてはこれでもツイートを我慢している方で、今月も私のアカウント(@AnywayOK_suke)には10数個のツイート下書きが貯まっております。今月もその中からいくつかを抜き出して、ここで発表したいと思います。

 

 

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完全に春やん!最高~~~~!!!

 

 

 嬉しい~~~~~~~!!!!!!!!!

 みなさんがお住まいの地域でも、今年の冬は例年よりも一段と寒かったのではないでしょうか。私の地元でも、今年は何度も雪が積もりました。大晦日の夜中11時にアルバイトを終えたら自宅までの道が凍っていた時の絶望感は半端ではありませんでした。気温に関しても例年は0度を下回る日など年に数えるほどしかないのですが、今年の冬は年明け以降そのような日が何日も続き、かなり辛かったです。用事のない日は毎日、起きてから1時間は布団の中で過ごしていました。

 それだけに、ここ最近の手のひらを返したかのようなぽかぽか陽気には感謝しかありません。ありがとう太陽、ありがとう地球。耐え忍べば、春は必ずやってくるのです。

 

 

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バイト先の店長が大学院卒で仕事も探さずふらふらしているアルバイトの後輩を指して「人生を謳歌している」と言っていて90年代っぽいな~!!!と思った

 

 

 私自身周りから見れば「ふらふら」と生きてきた方なので後輩に対して馬鹿にする気持ちはないのですが、後輩の生き方を「人生の謳歌」と捉える店長(40)の感性は正直古いなと思いました。

 そりゃ一昔前はバブルがはじけたと言っても世界2位の経済力で向かうところ敵なしだったかもしれませんが、今の日本社会は人口減少や国際的な経済力の低下を背景に「どうにかなるでしょ」的空気感は年々消えてきているように思います。かといって安定雇用の道を選んだとしても今どき大した給料も出さずにリストラのリスクさえあるのにモーレツ社員(笑)を求めるオールドスクールな企業もまだ数多く存在し、若者にとっては社会のどこに身を置いてもリスクと隣り合わせの時代であると言えます。

 もちろん、そんな社会の中で「ふらふら」生きようと、安定への道を歩もうとその選択自体は全く以て選択の自由の範囲内です。しかし、一方を「人生の謳歌」と捉え、もう一方を不幸の始まりのようにとらえる店長の発言はさすがに時代錯誤のしょっぱさを隠しきれません。20代の頃は仕事の成績も良く、社内で表彰されるほどの人物だったという彼も今となっては会社の都合で左遷を繰り返しており、冒頭の発言に対しては苛立ちを通り越してある種のわびさびさえも感じます。

 余談ですが、この店長は6回生にして就職を決めた私に「お前も年貢の納め時かw」と言ってきました。このセリフは一生忘れません。

 

 

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インターネットや資本主義にラブがないことよりもインターネットや資本主義にラブがないことを分かっているのに辞められないことがネックになっていることの方が多くて、世の中厳しいねつってる

 

 クソデカ主語、社会ワード、ネガティブ発言などツイートに必要な要素が全て詰まっており、芸術点の高い作品となっております。これ、どうしてこんなことを書こうと思ったのかが全く思い出せないのですが、正直今読んでも「確かにな~」という気持ちになります。

 資本主義において労働者は労働から疎外される、とはカール・マルクスが150年前に主張ことなのですが、マルクスの思想の顛末である社会主義の試みがほとんど潰えてしまった現代でも労働問題などの議論で前提とされるべき考え方だと思います。同様に、インターネットが人間に及ぼす悪影響も専門家の間で議論されており、ブルーライトが人体に及ぼす影響やSNSや広告のアルゴリズムによる表示情報の偏りなど、今日では非専門家にも知識として知られるようになってきました。つまり、資本主義やインターネットが負の側面を持っているということは、今や知識上誰でも知っているようなことです。

 それでも、人は資本主義やインターネットを手放すことができないのはなぜでしょうか?それは恐らく、私たちが資本主義やインターネットに依存しているからでしょう。資本主義を例にとってみると、「結局お金が一番大切」と言ったって、ただお金を持っているだけでは腹も満たせませんし、家に住むこともできません。お金があらゆる目的の手段になることはあっても、それ自体が目的では決してあり得ません。また、インターネットに関しては世間に浸透してからまだ30年も経っていないので言わずもがなでしょう。今でいうと大体50歳以上の方はもれなくインターネットのない世界を実際に経験してこられたわけですし、デジタルネイティブ世代の我々も、ツイッターやインスタグラムを辞めても実生活に何の影響もないということは薄々分かっているのではないでしょうか。

 資本主義やインターネットは万能ではなく、特定の条件が付いた時だけ人の役に立つ道具なのです。資本主義やインターネットはもっと積極的にコントロールされるべきだと私は思います。

 

 

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やっと気づいたんだけど、適度な運動はメンタルに良いな

 

 ここらで一つくらい、明るいツイートでも挟んでおきましょう。

 就職先が体力仕事であるということもあり、最近は軽い運動を始めてみました。とはいえ、小学校2年生で体操教室を辞めて以来文化系一筋で育ってきた私がいきなりジムで筋トレに励むこともできないので、まずは柔軟体操と1km程度のランニングから始めてみています。

 ここ数年はメンタル的な不調もあって休みの日は家から一歩も外に出ずに引きこもって過ごす日々だったのですが、少し外に出たり身体を動かしたりするだけで実体のない不安のようなものがかなり解消されて楽な気持ちになってきました。また、それなりに疲れるので不眠の解消にも一役買っています。運動が体にいいらしいというのは何となく噂で聞いていたのですが、まさかここまでとは。

 

 

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今は似たような立場の友達が就職していくのが不安かもしれないけど、これから立場が変わっていけば大半の人は他人になるから、そんな人に無理についていこうとせずに自分が真剣になれることを突き詰めていったほうが良いよ

 

 これは留年経験のある某友人に送ろうと思って辞めたリプなのですが、留学1年、留年1年を経て24歳で大学を卒業することになった自分の大学生活に対する振り返りから来たものです。

 このブログで折に触れて書いているメンタルの不調は3回生の春ごろから深刻さを増し始め、1年の留学期間を経た後にはズタボロに近い状態でした。そのため、すぐに復学して卒論執筆や就職活動を行うのが困難だと感じていた私は一旦休学しようと思い立ちました。しかし、大学の休学届というのは保護者の許可が必要で、当時両親と大きな喧嘩を繰り返していた私にとってはかなりハードルの高いものでした。そのうえ、両親は「メンタルヘルスという概念はこの世に存在しない、医学が実体のないものをあるかのように見せかけているだけだ」という精神病懐疑論者で、私の状態を説明しても徒労になるのは目に見えていました。そんなこんなで22歳の秋、私は両親に内緒で履修登録を故意にすっぽかし、学校を行くふりをして家を出てはバイト先で一日を過ごす、という日々を始めるのでした。

 この頃、同じ年に大学に入学した友人は、国際系専攻で休学率の高い学科の友人を除いたほとんどが4回生になり、就職先なども決まり始めている頃でした。学科の友人は留学から日本に戻って卒業への準備を始め、高校時代や他学部の友人は既に卒業後を見据えた生活を送り始めている中、私は朝の時間を独りファミレスで潰し、昼前からはアルバイト先に向かってそのまま夜9時まで働くという生活。そのころ、たまに会う高校時代の友人から卒論や将来の就職先についての話を聞くたびに、いままで当たり前のように親しんできた人や物が今や遠い向こうに霞んで見えるような心地になったものです。

 しかし、同じ学生同士として気軽に会うことのできた友人も多くが仕事で忙しくなり、また自分は自分で2年遅れの卒業論文や就職活動に追われているうちに先に卒業した同期との連絡はだんだんと減っていきました。そのことに寂しさを感じる余裕もない、というほどではなかったのですが、自分が張った意地を最後まで張り通すのに精いっぱいで、かつての身近な人にしばらくぶりの連絡をすることもだんだんとためらわれるようになりました。

 こうして二つの道はだんだんと左右に別れ、しばらくは並走していた道同士も、いつしか全く別々の終着点を目指すようになっていきます。はるか遠くの目的地を見通せないうちは偶然重なった道を歩く人があたかも一生の伴走者のように見えるものです。しかし、別のところで生まれた人同士はそれぞれ別の引力に引かれ、二人の歩調は少し、また少しとずれたものになっていきます。それは一時寂しかったりつらいことに思えるかもしれませんが、そんなことはありません。道が分かれるのは、あなたがあなた自身の道を歩いている証拠なのです。

 就職先が決まって地元を離れることが決まった今、高校時代のある友人に久しぶりに連絡を取りました。その友人は恐らく、私が歩もうとしている道や人知れず張っていた意地のことは知らないことでしょう。でも、分かれ始めは不安でも自分は自分の道を歩いているのだということがはっきりと分かった今は、前よりも少しだけ胸を張って生きることができているように思います。だから、このツイートを送ろうと思ったあの人も、きっと大丈夫なのだと私は思います。

 

 

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長くなりましたが、今月は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。