とにかく☆ヨ助のデジタルタトゥー

とにかく☆ヨ助のブログです。日常と音楽の話をします。

続かない

 小学生の頃、夏休みの宿題で出た「毎日日記を書こう!」という課題は、毎年8月終わりになってまとめて書いていた記憶がある。

 夏休みになると学校に行かないので、友達と関わる機会がない。今年25歳になる私の小さい頃は、まだまだ携帯電話を持っていない子どもの方が多く、学校が休みになると友達と会う時間も自然に減った。では、約一か月もある長い休みに何をして過ごしていただろうか。おぼろげな記憶を辿ってみると、両親に遊びに連れて行ってもらうほかには、塾に行ったり図鑑を読んだりして過ごしていたと思う。小さなころから勉強が好きだった私は、塾や図鑑が好きだった。つるかめ算のやり方を教わったり、中国の簡体字や昔の特急列車の歴史を知ることが面白くてたまらなかった。でも、塾や図鑑で身につけた知識は「その日に起きたこと」ではないから日記には書けない。そもそも、その日一日を振り返るという理由がよく分からない。こんなことをやって何の意味があるのだろう?

 私は、夏休みの日記をサボっては母に叱られた。

 

*

 

 勉強が好きだった私は、ラッキーなことに勉強ができた。だから、中学は公立の中高一貫校を受験し、合格した。でも、中学生活についていくのは、私にとって決して簡単なことではなかった。学校の授業や課題のレベルが小学校とは比べ物にならないほど上がったからである。小学校の頃は勉強が出来なくて困ったことは一度もなかった。夏休み課題の日記のように、期限ぎりぎりになって作業のようにこなしてしまえば簡単に片付いた。一方、中学の課題は考えなければ解けない。おまけに、難関国公立大学に現役合格できるような生徒を6年かけて育てようというコンセプトの学校なので、課題の質だけでなく、量も格段に増えた。根が面倒くさがりの私は英語や社会といった得意科目の宿題だけをやって、他の課題はやらないことが増えた。

 

*

 

 高校では軽音部に入って、ひたすらに遊んだ。勉強はあまりしなかったけど、好きこそものの上手なれで得意科目の成績はかなり良かった。高3のころ、小学生のころから通っていた塾で進路面談を受けることになった。面談の相手は私を小学生の頃からみてくれていた塾長先生だった。先生はとても厳しく、子どもが努力を怠れば手を出すことも厭わない昔カタギの先生だった。もともと勉強が好きだった私は、中学の課題をサボるようになってからも塾の宿題は真面目にこなした。学校より塾の授業を真剣に聴いた。だから、10年間通った中で直接叱られた経験も数えるほどしかなかった。

 もう夏も近いというのに、私は受験勉強の類を一切していなかった。その頃の私は苦手科目が足を引っ張っていたものの、努力次第では第一志望の大学に手が届くものだった。私は先生に、受験勉強をしていないことを素直に告白した。すると先生は怒りこそしなかったけれど、今までにない真剣な表情で私を諭した。「今が最後のチャンスだぞ。」

 私はそこで生まれて初めて、努力というものをすることにした。そこから約8か月間、苦手科目にも真面目に取り組み、見事志望校に合格することができた。

 

*

 

 私が入ったのは、某大学の外国語学部だった。専攻する言語には、高校の頃から興味があった。だから、外国語の初級でありがちな発音やごくごく簡単な文法の授業は私にとってはかなり簡単だった。

 それよりもつらかったのは、大学生活をうまくスタートできなかったことだった。まず、5月に母親が交通事故に遭って入院し、家で家事をする人がいなくなった。私はこれまで面倒くさがって家事を習ってこなかったし、それでなくても往復3時間かかる大学で朝から晩まで授業を受けなければならなかった。単身赴任の経験がある父が最低限のことはやってくれたけど、会社に行かなければならないので時間は当然限られている。大学から疲れて帰ると、家事をやらない私は父によくどやされた。

 この頃辛かったことはもう一つある。小学生の頃から高3までお世話になった塾で講師としてアルバイトをすることになったのだけれど、このバイトが今でいうブラックバイトだった。大学の授業が始まる2週間ほど前、私は突然塾に呼び出され、担当する科目と時間を勝手に決められた。そして、受験からの解放感を味わう間もなく先輩のバイト講師から短い研修を受け、そのままいきなり黒板の前に立つことになった。私は問題を解くのは得意だけど、人に勉強を教えたりするのが下手だった。そのうえ、子どもの頃から工作やお絵かきが苦手だった私は板書やレジュメを作るのが遅い。私の塾では授業資料を作るのに給料は一切出ないので、日付が変わるまで塾に残って資料を作った。でも、慣れない新生活と急な家での家事手伝いで疲れていた私はミスを連発した。私はバイトが休みの日にも塾に呼び出され、また日付が変わるまで資料を作り直した。

 そうして寝不足の体いっぱいにストレスを溜めこんだ私は、大学の授業をサボるようになった。通学に使う電車を乗換駅で降りずに、終点の繁華街で降りる。お金も、すぐに連絡のつく友達もないので、平日昼間の街中をただひたすらに歩いた。時には1日10km近く歩いて、隣の市まで行ったこともあった。

 

*

 

 今年からブログを始めてみることにした。メンタルクリニックで受けたIQテストによると、私の言語認知能力はズバ抜けて良いらしい。出鼻をくじかれ、面倒くさがりの気質もあってこれといったことはできなかった大学生活だったけど、楽しいこともなくはなかったし、高校まで苦労の少なかった分いろんな経験をした。得意なことも不得意なこともあるけど、これからは得意なことをできるだけうまく生かせるようにしたい。そうだ、まずは手始めにブログでも始めてみよう。もともとおしゃべりは好きだし、続けているうちに何となく文章が上手くなったりすれば、これからの人生で何かの役に立つかもしれない。とりあえずは週に一回。毎月固定のネタもいくつか考えたしこれなら続くぞ、よーし。

 でも、今週は何も書くことが思い浮かばなかった。これを書いている日は丸一日休みだったけど、何となくブログを書く気分にならなかった。でも、まだ2回しか更新していないこのブログを今日サボると、きっともう金輪際更新しないだろう。だから、何でもいいから書いて更新しなければ。

 

*

 

 人は簡単に変わらない。しかも、大人になればなるほどその傾向は強くなるらしい。今年25歳になる私は来年から就職することになる。年齢的にも立場的にも、きっとこれまでほど自由はきかなくなるだろう。じわじわと歳を重ねて、手に届くものと届かないものの区別がついてくる。自分の周りにあるものの大切さが、少しずつ身に染みてくる。それでも、まだ変えたいという希望はある。千里の道も一歩からというけれど、ブログを続けるというとても単純な目標さえもまるで砂漠の蜃気楼のようだ。